●1999年当時、オレが担当していたインタビュードキュメント番組で、御本人にお会いしてインタビューをしたときのメモです。これをまとめている中で、このインタビューのテーマは「傷」だな、と感じ、そのニュアンスを元に構成し「傷の遺伝子」というテーマで番組台本を作りました。(実際にオンエアされたのは、この構成を元に、再度インタビュアーがお話を伺う形で収録し、VTRなどをはさみこみながらまとめたものです)放送形態とはだいぶ形が変わっているかと思いますが、オレの考えも含めて、やなせたかしという方は「傷」にこだわりぬいた作家なのだと今も思っています。
漫画家
勲四等端宝章授賞(1991年:平成3年)
1919年(大正08) 2月6日、高知県香北町生まれ
祖母、父、母、弟の5人家族
1923年(大正12)朝日新聞の記者だった父が上海赴任中に死去。弟は、叔父のもとへ養子に。母と祖母との3人暮らしに
●ボクはおばあちゃん子で、よく近所のパン屋でアンパンやジャムパンを買ってもらいました。
小学校2年の時、母が再婚。叔父の家に預けられる。養子に来ていた弟は奥座敷。しかし、やなせは書生部屋へ。
1925年(大正14) 後免野田組合尋常小学校に入学
●まじめで、うちで本を読んでいるというタイプ、おとなしい生徒でしたよ。田舎ではガキ大将じゃないとダメなんです。子供心に、恥ずかしいと思ったりもしました。
●ボクは早生まれで6歳で入学したから、学業はいいのだが体格的には劣り、運動会では絶対に三位以内には入れなかった。口惜しくてたまらず。これはひどい劣等感になった。そのくせ負けず嫌いで負けると大粒の涙がとめどなく流れた。年中泣いてばかりいる泣き虫小僧だった。
●野育ちだから、全身生傷の絶えることはなかった。草の葉で切るし、木や崖から落っこちる。そういうわけでボクの描くアンパンマンの活動舞台はいつも森、山、川、海で。街の中の話はほとんど無い。田舎で暮らしたから、生傷の耐えない子供だった。右の目の上の傷は、中学を卒業しても消えなかったし、今も右足の爪にも傷が残っている。
●中学になると一人で映画を見に行ったり、漫画を描いたりすることが多かった。中学時代は、学校を抜け出して映画館へ通う日々。映画「フランケンシュタイン」は今でも印象深い。モノに魂が宿るというコンセプトはアンパンマンも影響を受けているのかもしれない。
●不良少年にあこがれていて、必死になって努力したが、うまく行かなかった。素質がなくて偽悪的に振る舞っても様にならず、勤勉実直風で情けなかった。
「子供の頃は自分を天才だと思っていた」
●横山隆一氏の最初の奥さんの弟がクラスメートで・・・家へ遊びに行って話を聞いたりしているうちに、漫画家になりたいと思うようになった。
・・・漫画展で初めて原画を見て大いに刺激された。マンガ雑誌への投稿も常連だった。
1941年(昭和16年)徴兵
日中戦争に出征。中国人・中国兵向けのプロパガンダ宣伝ビラの制作を行っていた。弟は特攻隊としてフィリピンで戦死。
19××年(昭和××) 高知新聞入社
就職の時は父の職業を継ごうと新聞社へ。しかし、どうしても絵の仕事がしたくて上京。アルバイトで書いていたマンガの収入が良かったため、自信をもって退社。
1948年(昭和23) 三越宣伝部にイラストレーターとして入社
1953年(昭和28) 漫画家として独立
●最初は長谷川町子さんのような新聞連載漫画を目指していたのですが、才能がなかったのか・・・。家庭漫画は苦手で、芸術っぽい売れない絵ばかり描いていました。
●ヒット作に恵まれず、サイン会に呼ばれても、「色紙に何を描いて良いかわからず困った」。
そんなとき、よくこんなことを描いた<しあわせよ、あわてるな、カタツムリにのって、あくびしながら、やってこい>「ボクはね、才能もないし、何をするにも遅いんです。だから、ゆっくりと、人よりもちょっと長くやらないと」
1961年(昭和36)「てのひらを太陽に」作詞
好きなように漫画が書けない。映画解説。舞台美術。やってくる仕事は何でもやった。この頃に作詞した歌が「ぼくらはみんな生きている」
●この詩を書いた頃のボクはダメな時期だったんだよね、元気の出るような詩になってるけど、詩を書いた本人は全然、元気じゃなかった。本当にやりたい仕事が見つからなくて、漫画を描いたり、ラジオの構成をやったり。
●てのひらを太陽にすかしてみれば、という歌詞があるけど、本当は暗い部屋で一人、懐中電灯で自分の手をじっと見ていたら血管が真っ赤に見えてきたんだ、太陽にすかしてみたなんて嘘だよ。
●芸術家が何をしてもいいというのは間違い。常識人、社会人として、いい作品を残したい。だからこそ、生活のために、仕事はきちんとした。
1966年(昭和41年)詩集『愛する歌』で詩人としてデビュー
山梨シルクセンター(現・サンリオ)の辻信太郎社長の薦めによる
1973年(昭和48年)には雑誌『詩とメルヘン』を立ち上げ
1973年(昭和48)アンパンマンを描き始める
●例えば谷川岳で迷った人を助けるというとき、アンパン一個あれば簡単でいいじゃないと思ったわけ。中にアンコという糖分があるし、外側がでんぷんで、味はまあまあいいし。それでアンパンの顔をした人が飛んでいって助けるという設定にしちゃった。僕自身、遠足でいつ持っていったアンパン以外の菓子を知らなかったということもあります。
●第二次世界大戦は正義の戦いだと思っていた。ところが敗戦になると、あれは正義の戦いじゃなかった。・・・ベトナム戦争の時も、アメリカは正義のために立ったわけなのに、いつの間にかいつの間にか逆になってしまったという部分があるでしょう。湾岸戦争でもそう・・・正義なんてそんな大げさなことを望んでいない。たとえばアラブへ行こうが、イスラエルへ行こうが、そこでおなかをすかしている人を助けるというのが正義でしょう。見る側によって、正義は違うもの。だから、「正義を鵜呑みにしてはいけない」信じられる正義はひとつだけ。「献身」。自分も傷付きながら、自分を傷つけても、人にほどこす事。これは、アンパンマンでもくり返し出てくるテーマ。
●アンパンマンの顔は食べられる。・・・正義を行うには、必ず自分も傷つくんです。例えば、電車の中でたばこを吸っている人を注意して、殴られてしまうこともあるでしょ。恐いからボクは注意しないけど。
●今のコマ漫画はほとんど国内ネタをやっちゃうから、日本のことを非常によく知っていなければ海外の人が見ても全然わかりませんよ。政治漫画もニュースがあってそれを解説している絵描きばかりで、鋭くつっこんだ風刺は無くなってしまった。国際性ゼロで、日本の中だけでうけてる。漫画というのは国際的にどこでみてもわかるっていうのが原点だと思いますね。
●ボクは絶対に貧乏と借金はしない主義なんです。たとえ大芸術家でも、他人に迷惑かけるヤツはダメ。だから借金ばかりしていた石川啄木はろくな人じゃない。
●じいさんになって忙しくなるのも悪くないよ。だんだん仕事が無くなって寂しくなるより、いいでしょ。道楽のつもりだから面白いし。
1991年(平成3) 勲四等端宝章、授賞
1993年(平成5) 暢(のぶ)夫人死去
●「人間はいずれ死ぬんだな」って実感した。子どもはなく、孤独の身に。他人から、やなせさんの絵は寂しそうだと言われる。カップルの絵を多く描くようになったのも、孤独を紛らわせるため。だから、アンパンマンにも、たくさんの仲間たちがいる。でも、実は今では、孤独を愛している部分もある。
【人生を、一言で例えると?】
「傷付くこと」世の中には、確実に「傷付く事」が存在する。自然の中で遊んでついた傷は、自然の厳しさ。「生きているから悲しいんだ」という歌の歌詞。正義もまた、傷つく事で成立する。良いことばかりではないからこそ、人間的な人生なのだ。
Na「やなせたかし。孤独と挫折に、自らが『傷』を負いながら、その現実を受け止めてきた勇気。戦わず、ただ、守り続ける事。傷をむき出しにして、与え続ける事の強さ。かっこ良さに背を向けたヒーロー。それを産み出したものこそ『傷』の遺伝子。」