胸躍るあの日のスターウォーズへの期待
● なにはともあれ、スター・ウォーズなのだから観に行かない訳にはいかない。そう思っていたら、公開直前になって観に行った他映画(「ガールズアンドパンツァー最終章」)で、翻訳版の予告編を観てしまったんですよ。それ、子ども客を意識したのか、これまで観てきた「スター・ウォーズ」の予告編とはだいぶテイストが違ったものだたんです。レイは「さあ、行くわよ!」って叫ぶし、フィンは「うおおおお」とか言いながらキャプテンファズマに向かっていくし、カイロレンはコクピットで「そうはさせるか!」とか叫ぶし。しまいには、ナレーションが「フォースの力で世界を救え!」とか煽る、煽る。セリフ自体は安っぽいんですが、アクションマンガみたいで最高に楽しそう。しかつめらしい、これまでの予告編がふっとぶ勢いで、めちゃ楽しそうだ!と感じたんです。
● この感覚。中学生時代に感じた「スターウォーズ」への思いに非常に近いことを思い出しました。劇場公開前には、日本語吹き替えのドラマ編LPレコードが発売になり、それを聴いて盛り上がっていたんですよ。ルークは神谷明、レイア姫が藩恵子、ハン・ソロは羽佐間道夫、オビ・ワンが納谷悟朗で、モフ・ターキンが山田康雄!!当時は、ネタバレもクソもありません。ドラマを聴いちゃえば、ストーリーは全部知っちゃってる状態なんですから。物語は、非常にマンガチックで、中学生にも親しみやすい物語に感じました。そうなると、劇場に足を運ぶという事は、このお話がどんな映像になっているのか?を確認する作業になってるわけです。それでもワクワクしたんですから、当時の中学生の心境というのは、今の目から見たら想像できないかもしれません。
● 要するに、初めて見る映画なのに関わらず、キャラクターはすでにお馴染みだし、お話もわかってる。それでも、どんな映像で自分を振り回してくれるのか?というのが、自分にとっての「スターウォーズ」の原体験であり、大事な「スターウォーズ」の価値なのです。これまでの「重厚そうな」「重々しい」予告編に慣らされてきた自分が、ハッと中学生時代に引き戻される感覚。「そう!スターウォーズってこれだよ!」と思ったのが、あの子供向け予告編だったのです。そんなわけで、ここ10年、いや30年ぶりに、非常にテンションの高い状態で観に行くことになったのです。
● そんなワクワク感で観た『スター・ウォーズ 最後のジェダイ』はどうだったか?正直、場面転換がこれまで以上に細かく、視点があっちゃこっちゃするので非常に忙しい内容だなと感じました。これは、「フォースの覚醒」でも感じたことなのですが、描かなくてはならない人物が増えすぎたという事があるんでしょう。旧作だと、人物描写はルーク・スカイウォーカーに絞られていた(レイアや、ソロは、オカズ程度)んですが、イマドキはそうもいかないんでしょう。今回は、レイ、フィン、カイロ・レンに加えて、ポーの内面にも迫り、加えて新キャラのローズやも描かなければならない。そして、今作の主人公、ルークスカイウォーカーも!!そんな条件をクリアするために、宇宙活劇としてはいささかまどろっこしい展開になってしまっているな、とは思いました。このあたりは旧作の「帝国の逆襲」にも近い印象です。砂漠の星からスタートする展開が「新たなる希望」とよく似ていた「フォースの覚醒」に対して、今作は真っ白い星とAT-STや、フォースの修行をする若者というシーンが「帝国の逆襲」的に思えた部分もあるのかもしれません。正直、観る前に感じていたワクワク感、マンガチックで胸躍るスペースオペラとは、かなりの温度差のある作品だったことは確かです。
● では、がっかりしたか?と言われるとそうでもないのです。むしろ、長年「スターウォーズ」を観続けてきた上で、ぐっとくるシーンがいくつもあり、エモーショナルな意味でとても楽しむ事が出来ました。
ルーク・スカイウォーカーの生き様
● 「新たなる希望」はルーク・スカイウォーカーの立身出世物語でした。現状に不満を持った田舎者が、ふとしたきっかけで「お姫様」のピンチに出くわし、「よし、一旗揚げてやるぜ!」と張り切って冒険の中に身を投じていくのがメインストーリーです。やがて、自分の中に芽生えた超感覚(フォース)を使って大活躍し、最後にはお姫様からの祝福を受ける。故郷の地、タトウィーンでつまらない日常を憂い、二重太陽の夕陽を見てたそがれる若者、ルークは、まさに田舎から映画の世界に憧れて出てきたルーカス自身の分身だったはずですし、同時に、世界中のイケてない若者の分身でもあったわけです。
● ところが一転、「帝国の逆襲」から、急にルークの出自が取り沙汰されるようになってきました。ルークはたぐいまれなる才能を持つ若者であり、しかも、どうやらダースベイダーとも関係がある。どこにでもいる、田舎者のにいちゃんではなく、選ばれた血統のエリートだったというわけです。今で言う厨二病的な設定ではありますが、このあたりからルーカスが「スターウォーズ」に込めようとした「神話」的な要素が色濃くなってくるわけです。「ファントム・メナス」からのプリクエル三部作では、その父、ダースベイダーの出自が描かれ、よりルークの「王子様」度合いがぐんぐん上昇し、いつの間にか「スターウォーズ」は「選ばれた血族」の物語に様変わりしてしまったのです。そこに、我々「田舎の若者」が共感できる物語は、すでにありませんでした。
● 今作「最後のジェダイ」は、そんな過去6部作にわたるアナキン、ルークの物語の完結編でした。老いたルークは、その重責に耐えかねて隠棲しているしょぼくれた王子様です。それが、レイと出会うことで、再び自分に向き合い、ようやく過去「新たなる希望」と呼ばれ、その期待に応えきれなかった自分への呪いを払拭するわけです。「血」など関係ないではないか?ここにいる新たなる希望、レイは、決して特別な生い立ちなどもない、どこにでもいる人間なのではないか、と。二重太陽の夕陽や、ヨーダとの邂逅、旧作をイメージさせるカットの数々は、昔見た、若き日のルークを思い出させ、自分たち、歳を重ねた観客の胸を熱くさせます。
スターウォーズは70年代の青春物語であるということ
● 前作からの主人公・レイの出自は、これまで、非常にもったいぶって描かれてきました。「砂漠でずっと誰かを待っている」。そしてフォースの素質がある。マズカナタが、素養を見抜いてライトセーバーを授ける。誰もが「カイロレンの双子?」「ルークの娘?」など想像出来るように盛り上げてきたわけです。それはこれまで「家族の物語」を全面に押し出してきた「スターウォーズ」だけに、強力なフックになっていたのです。しかし、今作を通して描かれたのは、結局、名もない親から見捨てられた、名もない田舎の少女だったという結論です。これが、制作者側が「新たな展開」と言う部分であり、『スター・ウォーズ』サーガ変革となる設定でもあるわけです。ただ、これを自分は「血統の物語を否定した、新たな展開」だとは思わないのです。
● 先にも書いたように「新たなる希望」(公開時はサブタイトルなし)では、ルークもまた名もない田舎の青年の物語だったからです。今作は、むしろスター・ウォーズの先祖返りなのではないかと思っています。「何者でもない誰か」が「物語」を紡ぎ、時代を作っていくということ。これは、ルーカスが青年時代に掲げたテーマの断片であり、公開当時に観客の胸を打った、「スター・ウォーズ」のエッセンスであるわけです。エンドロール直前に登場し、モップをライトセーバーを構えるように夜空を見上げる、あの名も無き少年も然り。今作で描かれた、レイの「妄想」の崩壊に、自分はぐっと来てしまったのはそういうわけです。
● 正直、物語のもたつきについて言いたいことはいくつもあるけれど、そこに目をつぶっても「よし!」と思ったのは、「スターウォーズ」が、ルークを通して青春物語の終焉を描き、レイを通して新たな青春物語を描いたという二点。そう、自分にとっての「スターウォーズ」は青春モノであり、宇宙を舞台にしたアメリカン・グラフィティでもあるからなのです。
● もう一点、スター・ウォーズは「お祭り」映画でもあります。豊富なキャラクター、メカ、モンスターが出てくること。馴染みのチューバッカが出てくれば、それだけで「おお、元気でやってるな」というわけで観ていてごきげんな気分になれるのです。もちろん、オモチャとの相性も抜群なコンテンツゆえ、毎回、公開後には「スターウォーズ」おもちゃを買いまくるわけですけれど、今回は・・・。そう、そんなにピンとくるキャラクターもメカもなかったのです。これは少し残念な点。実際、今作の一番カッコイイキャラって、おじいちゃんルークですからね!!