● 今日Twitterで「バラゴンの正式名はバラナスドラゴン」という発言が飛び出して盛り上がったらしい。2000年頃に、そういう表記の怪獣図鑑的なものを見た記憶があったので内心「まあ、正式っつーか」と思っていたら思いの外紛糾してた模様(’∀`)メタ的、正史としての目線で言えば、そりゃ「正式」ってことはないだろうよ、シナリオにもそんな表記はないし、と思うんですが、フィクションとしての設定ということになると、これが微妙なわけですよ。怪獣図鑑のライターさんが書いてしまったこととはいえ、それが広まり(ある世代間限定だったとしても)コミュニティの中で息づいてしまえば、「正式名がそういう設定の怪獣」としても、まあおかしなこともないでしょう。すでに、ライター発で作られた怪獣スペックというのは山ほどあったわけですから。大伴昌司的な。

● 要するに浸透度の問題で、同人レベルが、いつしか「常識に変わってしまう」のも、長寿シリーズ物の宿命なんですよ(制作者の意図から外れてしまっても、だ)。バラゴンに関しては、世代的にピンとこないとこもあるんだけど、まあ結構かっこいいんじゃないすか?バラナスドラゴン〜バラゴンっていう変遷は。正式名称!とかっていう設定、子供(オタク)は大好きなんですよ!!「66式メーサー殺獣光線車」!とか(’∀`)

● なんか、こういうのにたようなケース最近あったよなあ、と思ったんですが、ハロウィンの伝統うんぬん、ってのも揉めてましたよね?アレも構造似てないですかね?「ハロウィンが日本で(アメリカでも)単なるコスプレイベントになってる」と、大人が憤ってるという話。そもそも、ケルト民族の薄暗い歴史ある祭事だったら、アメリカでも日本でも真似しませんよ。大衆が伝統を消費する、っていうのは珍しい事でもないですしね。伝統が間違った形に変化してでも「定着する理由」ってのはあるんですよ。多分「面白い」とか「かっこいい」とか、そういう快楽にまつわる欲求ですよ。さらに、それを「定着しちゃえば、それも正しい」って認識してる人たちがいる。常識は時代とともに変わるんですよ。まあ、ハロウィンなんて、どっちでもいいです、オレは。ただ、本物の伝統とか、確からしい歴史(確かかどうかはともかく)は必要だと思ってます。「ケルトの話を知らない人は愚かだな」と思い、ルーツを明確に語り継いでくれるインテリが少数でも存在してればそれでいい、くらい。歴史に学ぶ、のは何よりも大事なことですからね。

● こういう快感にまつわる欲望が、歴史を歪めちゃうっていう話は、「江戸しぐさ」にもつながりますよね。あれは、フィクションの話ではなく、学校で教えるものなだけに「伝統の」とか教えるのは問題あるとは思ってますよ。でも、ああいうものを「伝統としてありがたがる」欲求は理解できます。共同生活を成立させるために、子供たちの集団(もしくは無軌道な大人を含んでもいい)の中の摩擦を減らしたり、意思をまとめたりするには、必要なんですよ、「モラル」とか「良心」とか「マナー」とか、そう言った「合理的でない人間関係の法則」が。そこに、するりと割り込んできたのが「江戸しぐさ」ですよね。多分、便利なんだと思います、ああいうロジック。さらに、それを詐欺的に「伝統的」としてしまう事も欲求にかなってるんですよ。みんなバラゴンの件と同じで「正式には」とか「伝統的には」みたいな理屈がありがたいわけですから。それに乗っかったところは、「嘘」としてとても巧妙だったな、と思いますね。

● アメリカやヨーロッパでは、「モラル」とか「良心」とか「マナー」を宗教に学ぶわけですけど、多くの日本の学校は、いろいろ経緯もあって「宗教」は教えられない。それに変わったものが「道徳」だったはずなんです。僕らの昭和生まれは「道徳」っていうのを比較的まともに信じてた最後の世代なのかな?とも思うんですが、実際、イマドキ「道徳」って死んでるじゃないですか。「徳」なんて儒教的なものは、封建的だし、古臭いし、何より合理的じゃないし。「古い価値観」として捨ててしまった。そこに悪い意味で「伝統に帰依する快楽」を伴って出てきたのが「江戸しぐさ」だったんじゃないかと思うんです。

●思いのままに、書いてたら長くなって、こんな長文、読むのもつまらないでしょうから、今夜の日記はこの辺でおしまいです。明日は、もうすこし楽しいことを書きますので許してください。

● ああ、テレビ版「デビルマン」観たいんですよ。ブルーレイ、高くて買えないのですけど、どこかで配信してくれないですかねえ。